安田さんは2015年6月、トルコからシリア北西部に徒歩で入った。今月2日に開いた記者会見では、国境付近でシリアへの案内人を待っている時に、予定外の2人組に声を掛けられ、ついて行くとトラックに乗せられたと、拘束の経緯を語っていた。
安田さんは当時の心境について「シリア人でも国境の出入りが難しかった時期で、2人組が案内するという話が(案内人との間で)ついていると良いように勝手に解釈した」と語り、「親しいシリア人と一緒に行ったり、他の日本人と複数人で入ったりしたらミスはなかったとも考えた。防ぐことはできた。集中力を欠いた」と明かした。
拘束後はパン工場や民家、集合住宅など約10カ所を転々とした。
約1年たった16年7月からは他にも多数の拘束被害者が収容されている施設に入った。イドリブ県西部の山岳地帯にある地上5階、地下1階建てで、シリア政府軍の兵士や外国人の義勇兵、大麻の売人とみられる拘束被害者もいたという。
安田さんは新たに、声変わり前の少年や乳児を含む家族も拘束されていたと明かした。尋問のやりとりから、少年はスパイ容疑をかけられているようだったとし、家族については「何らかの理由で父親が拘束されたが、母親と乳児だけでは生きていけないため同じ施設に入ったようだった」と話した。
さまざまな国や組織の人が100人単位で拘束され、短い人は数日で出て行ったことから「他の組織から捕虜を引き受けて商売にしているのではないか」と語った。
パンや菓子工場については、メンバーが「外国の組織からの援助はコントロールされるから受けない。プロジェクトで稼いでいる」と話していたといい、安田さんは「反政府組織同士の争いもある中で、生き抜いてきた世俗の小規模な組織という印象だ」と語った。
拘束中の生活は「走馬灯を見ていたようなもの」と語り、「過去の仕事や人間関係を振り返って、やろうとすればできたのに、なんでやらなかったんだろうと後悔ばかりしていた。生きて帰れたら、違う自分になれるんじゃないかと思っていた」と述べた。
安田さんは帰国後、約1週間入院。胃などに潰瘍ができていた。「今も2〜3時間ぐらいしか眠れず、明け方に目覚めてしまう」と疲れをにじませた。現在は「電車は乗っておらず、自宅にも帰っていない。『何かあったら』と家族が心配している」と話した。
今後の活動は「白紙」だが、紛争地で取材する意義を「人間の存在が『テロリスト』や『外国人』のようにひとくくりにされ記号にされると、殺されたり飢えたりしても気にならなくなる。だから生身の人間を見たい。そして人間らしい姿を撮れれば、持って帰って伝えたいと思う」と語った。
◇安田さん拘束・解放巡る経緯
2015年6月、安田さんはトルコ南部からシリアに入国し、武装勢力に拘束された。その後、安田さんの映像や画像がインターネット上で公開され、今年7月にはオレンジ色の囚人服姿で助けを求める映像が流れた。安田さんによると、10月23日に「今からトルコ」と言われて車で移動した後、トルコ情報機関の車に乗り換えてアンタキヤの入管施設に運ばれた。日本政府が安田さんと確認し、同25日に帰国した。安田さんは今月2日に記者会見し、日本政府への謝罪と感謝、拘束の経緯などを語った。安田さんを拘束したのは国際テロ組織アルカイダ系の「ヌスラ戦線」(現・シリア解放機構)とされてきたが、安田さんは、組織名を「最後まで知らされなかった」と述べた。
11/8(木) 0:20
毎日新聞
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181107-00000119-mai-soci
★1が立った時間 2018/11/08(木) 15:19:13.51
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