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2〜3カ月ごとに仮放免の期間延長が審査され、許可のスタンプが紙に押される
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故郷にも、日本にも、自由はなかった。ミャンマーのイスラム教徒少数民族ロヒンギャは、国軍の迫害によって約72万人が隣国のバングラデシュに避難している。日本にも1990年代以降、200人以上が移り住み、大半が群馬県館林市で暮らす。ミョー・ミン・ラッさん(37)は2006年、偽造旅券で福岡空港から入国。難民申請をして却下され、裁判でも訴えは退けられた。ようやくたどり着いた日本で就労や移動の自由すらないまま、12年が過ぎた。
1〜2カ月に1度、見慣れた顔の男性たちの車が自宅付近に現れる。取材の当日も来た。東京入国管理局の担当者だ。ミョーさんは「私が仕事をしていないか、県外に出ていないか確認しているようだ。長い間ルールを守っているのに、信じてくれない」と憤った。
ミャンマー南部パウンデー出身。03年、モスク放火などに関与した疑いで逮捕状が出た。身に覚えはなかった。理由は一つ。「自分がロヒンギャだからだ」。拘束寸前に逃げ、親族宅などに潜伏。06年6月、仲介者に3千ドルを渡し、偽造旅券を手に中国とマレーシアを経由して福岡空港に着いた。福岡のことは何も知らなかったが不安はなかった。「ミャンマーにいる方が怖かった」
空港ですぐに難民申請したが、不認定。福岡地裁に起こした訴訟でも、同時に提訴したロヒンギャの男性は「母国で民主化デモに参加した」として難民認定されたが、ミョーさんは逮捕状の容疑が「政治と無関係」として棄却。最高裁でも認められなかった。
06年8月、不法滞在だが人道上の配慮で身体の拘束を免れる「仮放免」となった。館林市は日本で最初に難民認定されたロヒンギャ男性が定住し、同胞が自然と集まった。ミョーさんもこの街に落ち着いた。
だが、仮放免は制約が多い。日本で知り合ったミャンマー人の妻(25)が、支援者の会社で働き、長男(5)と長女(2)を含む家族を支える。県外へ出るには事前申請が必要。健康保険証がなく、通院もためらう。2〜3カ月ごとに東京入管に出頭して仮放免の期間延長審査を受けるが「いつ却下されるか」と不安だ。却下されれば、入管施設収容かミャンマー送還。「正直、日本に来るんじゃなかったと思うこともある」
ミャンマー脱出を勧めた父は2年前に病死。政治活動に加わった義兄は現地の刑務所にいる。バングラデシュにいるロヒンギャの帰還が今月始まる予定だったが、難民の抵抗で実現していない。迫害を強く恐れるからだ。そして、逃れた先でも続く中ぶらりんの現実。
日本は今、入管難民法を改正し、外国人労働者の受け入れを増やそうとしている。一方で、ロヒンギャだけでなく難民の認定基準が厳格な日本の姿勢に、ミョーさんは納得がいかない。「日本語を勉強し、まじめに暮らしている外国人のことをまず考えてほしい」
在日ビルマロヒンギャ協会によると、日本で仮放免と認められた人や難民認定申請中の人はミョーさんを含め11人。難民認定されたのは15人にとどまる。
【ワードBOX】ロヒンギャ問題と日本
ミャンマー政府は、イスラム教徒少数民族ロヒンギャを不法移民と扱い、国籍を認めていない。昨夏、国軍との衝突でロヒンギャ約72万人が避難した問題では、欧米がミャンマー政府の対応を強く非難しているが、日本政府は「経済制裁などを行えば民主化の動きを止めかねない」とミャンマー支援を続けている。日本に逃れたロヒンギャの中には日本人と結婚して在留許可を得たり日本国籍を取得したりする人も多い。
西日本新聞 2018年11月26日 06時00分
https://www.nishinippon.co.jp/feature/new_immigration_age/article/468328/