その揶揄の先に待ち受けるのは、分断だ
それは面白おかしい“トンデモ”案件か
先日Twitterを眺めていたら、十数万人のフォロワーを抱える人気ライターのツイートが目に入った。
彼は「壱岐が面白いことになっている」といったコメントとともに、最近長崎県壱岐市で起きた、女性向けスピリチュアルビジネスがらみの騒動に触れていた。
10月、壱岐で大規模かつ高額のスピリチュアルイベント「縄文祭」が開催され物議を呼んだこと。その主催者であるブロガー・Happy氏や周囲のスピリチュアルリーダーたちが、奇抜な思想や主張――たとえば「引き寄せ」や「子宮系」――の持ち主であること。なおかつ、Happy氏が壱岐の観光大使にまで任命されていること……。
それらの紹介として、スピリチュアル界隈のネタを扱うブログ記事へのリンクも貼ってあった。
(略)
スピリチュアルビジネスだって同じである。超高額のセミナー、SNSでの不自然なまでの「幸せ」アピール、医学的・論理的に破綻した健康論など、たしかに一部のスピリチュアルビジネスには、見る者の心をざわつかせる要素が含まれるかもしれない。
しかし、それが一定の支持を得て存在しているということは、「そのビジネスが成立する社会」を我々は生きているのだ。
もし、“おかしなスピリチュアルビジネス“のことを本当に問題視するのであれば、なおさら個人ではなく社会の方の「スピリチュアルの要因」を見るべきだと思う。そうしなければ、いつまでもそのビジネスは生まれ続けるのだから。
それでもなぜ揶揄したくなるのか
しかし、こうした観点を横に置いて、対象を揶揄する風潮は依然強い。
それはなぜか? 簡単だ。揶揄する人々の本当の目的が、「極端なスピリチュアリズムの浸透を防ぐ」ことなどにあるわけではないからだ。単に「異物を揶揄する」こと自体が面白くて、そこに力を入れ始めてしまうからである。
仲間と面白さを、笑いを共有するのは楽しい。そこに快楽があることを、私たちはみな知っている。そして揶揄とはその快楽のために、異物とみなした人々を自分たちから切り離してもて遊ぶ行為なのだ。
同じようなことは、女性向けスピリチュアル界隈周辺だけでなく、いたるところで行われている。
たとえばSNS上にいる過激保守派は「パヨク」を、過激リベラル派は「ネトウヨ」を揶揄する。「クソフェミ」を煽る人々がいて、「自然派ママ」を笑う人々がいる。“我々”にとっての異物、“笑われて当然の荒唐無稽な主義主張”を掲げる人々を、「批判」や「注意喚起」という体裁で、今日も誰かが笑っている。
重ね重ね強調しておくが、スピリチュアルが内包する危うさ自体を軽視する気はない。スピリチュアルをめぐる分析や批評、社会に向けたある種の注意喚起は、むしろ今後さらに必要になると感じている。
ただそこに対象への「揶揄」が強く働く限り、スピリチュアルをめぐる警鐘は、“トンデモ”案件のエンターテインメント消費にしかならない。
ごちゃごちゃうるさいな、笑えるんだから笑いたいんだよ、と割り切っている人に対して、私から言うことはない。でもそうではない人には、「過剰にエンターテインメントにしない語り方」を一緒に考えていってほしい、とお願いする。
「近江商人が歩いた後にはぺんぺん草も生えない」という古い言い回しがあるが、誰が歩こうがその後に草ばかり生える、というのが今のネット界だ。そしてネット上では、「草」こそが我々の足元を不毛の大地にしていくのだと思う。
とても難しいことだけど、何かを笑いものにしたくなったときは、そしてしてしまったときには、一度踏みとどまってこう自分に問いかけたい。
それは、“本当に”笑えるくらい面白いものなのか?
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58774?page=4