倉本一宏氏
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魏志倭人伝(部分)
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国際日本文化研究センターの倉本一宏教授(日本古代政治史)が、邪馬台国九州説の論考を次々発信している。『日本史の論点』(中公新書、共著)『内戦の日本古代史』(講談社現代新書)といった本や雑誌の対談などだ。邪馬台国の所在地は福岡県の八女市や久留米市あたりだと具体的で興味深い。
九州か畿内かという論争の現状をみると、畿内説、それも奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡説の声が大きい。メディアもよく「邪馬台国の(最)有力候補地」と紹介する。
実際、纒向遺跡は普通の集落遺跡とは違う。3世紀初めから約100年続くとされ、「魏志倭人伝」によれば女王卑弥呼はかなりの高齢で248年ごろに死去したので時代が合う。遺跡は大型建物や運河のような大規模な水路をもち、九州から関東まで各地の土器が多数出土した。最初の大型前方後円墳である箸墓(はしはか)もあり、ここが全国に分布する前方後円墳の核心部であることも間違いない。初期王権の王都とみる議論に説得力がある。
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こうした状況下での倉本氏・九州説。議論の核心は、3世紀の日本列島の政治的まとまり具合をどうみるか、の点だ。九州説なら、卑弥呼を女王にかつぐ倭国は九州の一勢力にとどまるが、畿内説だと、強力な王権が列島の広範な領域を支配していたことになる。この点について倉本氏は「3世紀という古い時代、王権を一つと考えるのがまずおかしい。なぜ一つにまとめたがるのか?」と畿内論者に問う。「僕は、6世紀の磐井の乱まで、九州の勢力を独立政権だと考えています」
後の歴史をみると、7世紀にようやく中央集権の律令国家が成立する。「聖徳太子や蘇我氏が失敗し、天智、天武、持統天皇があんなに苦労してつくった。しかも最近では、この律令制さえあくまで目標であって完成されてはいなかったという学説が主流です。その400年も前に、あまり苦労した感じもなく中央集権ができるなんて……違うと思います」
このように、全国統一政権に傾きがちな畿内説の歴史観を批判した上、「文献史料は無理に読み替えてはいけない」と指摘する。これは畿内説が、「魏志倭人伝」に書かれた帯方郡(現在のソウル付近)から邪馬台国までの行程を解読する時、「南」を「東」と読み替えることへの批判だ。
その総距離の1万2000余里についても、途中の距離の記述に従って引き算すると、「伊都国(福岡県糸島市)から邪馬台国までは南へ千数百里残る。これは他の国々の距離から考えると数十キロ程度。八女あたりで構いません。当時の国家の成熟度を考え、文献を普通に読めばそうなります」
一方で、倉本氏は纒向遺跡の価値を極めて高く評価する。「完璧な倭王権の初期王都。だから(「魏志倭人伝」にある倭国が)中央権力だという先入観を取り除けば、極めて自然に理解できる。卑弥呼の倭国連合、纒向を王都とする倭王権、他に卑弥呼と対立した狗奴(くな)国など、各地にいろいろな政権が同時にあったと見るべきなのです」
さらに、纒向の倭王権が日本列島の中心的権力であって、地方政権である卑弥呼の倭国連合より強かったはず、とも話す。纒向王権のシンボル、前方後円墳が早い段階で北九州から千葉県までの広範囲で出現したからだ。ただ広いとはいっても、領域全体を面的に支配したのではない。あくまで拠点の支配であり、一つの地域内でも前方後円墳をつくるところもつくらないところもある。それが3世紀の実態とのことだ。
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纒向遺跡は今の天皇家まで王権としてはつながっていく。それだけに、畿内説を巡っては注視すべき点があるという。
「早くから倭の王権も権力も一つで中央集権ができていて、それが天皇家につながっていると言いたい人たちに利用される危険がある。九州説も確証がなくて歯がゆいが、統一政権というものを一度考え直すきっかけになってほしいですね」
邪馬台国論は古きよき牧歌的論争ではすまないのである。【伊藤和史】
毎日新聞 2019年1月23日 東京夕刊
https://mainichi.jp/articles/20190123/dde/014/040/002000c?inb=ra